坂の上の雲~自己流司馬遼太郎論
この小説の内容は明治海軍を褒め称えること、
ロシアに対する私怨プンプンの怒りをぶつけること、
そして旅順攻略戦における大損害の責任を乃木と伊地知に押し付けること、
以上の3つ以外に何もない。
……正岡子規? ああ、そんなのあったね(笑)
私は司馬遼太郎という作家についてプラスマイナスゼロと評価しているのだが、
この小説に関しては胸を張ってマイナス側だと言い切れる。
あまりにも小説の内容に作者の『感情』が出すぎているのだ。
物語の筋を完全に見失う程に。
何の感情もこもっていないフィクションは無味乾燥なものだが、
『作者の考えを主張することそのものを目的としたフィクション』は有害無益である。
明治ヨイショのプロパガンダ小説と言ってもいい。
日本海軍サイコー思想の啓蒙や、
ネチネチしたロシア貶しについては、度が過ぎてうっとうしいだけなのだが、
乃木観についてはかなりの疑問を感じる。
私自身は軍事オタクでも歴史オタクでもないので、
乃木という人物の来歴やら人間像やらをどう描こうが知ったことではないけれど、
一つの作戦における損害の責任をその二人に押し付けようとしている姿勢が気になった。
彼らの能力が司馬の描写通りであったとしても、
そもそもそのような無能どもが幾万という兵の生命を左右する立場になりえたのは、
藩閥思想が横行する明治政府そのものに原因があるのではないか。
「藩閥にとらわれず有能な人材を登用する明治政府の素晴らしさ」はマメにアピールしていたが、
「将に将たる器でない者が分不相応な役職に抜擢される藩閥政府の歪み」については、
あまり積極的に描いていないように思われた。
まして、司馬は乃木に対する描写について、
『これが事実だ』と言わんばかりのコメントを残している(あとがき四)。
身も蓋もないことを言うと、私は『司馬史観』という用語についても、
その内容についても少々ばかばかしく感じている。
自分の小説が「事実に拘束されることが百パーセントにちかい」と考えるのは結構だが、
そうであるのならば自身が一旦書いた内容についてもっと責任を持って欲しい。
『外交』において伊藤博文が林の説得により親ロシア方策を一瞬で蹴ったにも関わらず、
次のページからそのやり取りがなかったものとして話が進んでいるのは何故なのだ?
(露都行きをいきなり投げようとして林に諌められたほどの伊藤が、
次のページには親露方針積極派に逆戻りしている。
また、伊藤は露都行きの目的を『対英交渉の一手』に切り替えた筈なのに、
『外交』の最終ページではそれを「伊藤自身にとっておもわぬ効果」と描写している)
別の小説の例も挙げるならば、『最後の将軍』16章において、
岩倉具視の慶喜観が1ページで逆転しているのは何故なのだ?
(慶喜が辞官納地を受けるかもしれない、と言われて
「おそらく、そうやろな」⇒「慶喜はそこまで思い切るまい」
……どっちだよ!?)
小説家が自身のイマジネーションから創作した部分の帳尻さえ合わせられない人間が、
正確な資料に基づいた歴史的事実の描写などできるのだろうか?
『スピンダブルアームをかけられるジェロニモを見て驚くジェロニモ』
を描いたゆでたまごとレベルが大差ないように思えるのだが。
私個人としては、『梟の城』や『燃えよ剣』や初期の短編など、
伝奇小説的側面が強い作品については高く買っているのだが、
中期以降の『資料の転載』に特化した作品群については読む時間が無駄と思っている。
この小説もまた然り。
『司馬史観』という言葉に知識人(笑)の方々のみならず、
司馬自身さえも踊らされていたように私には思えてならないのである。