にゃるにゃゆ流漫画批評論(前編)
何の気も無しにネットをやっていたら、
漫画Aと漫画B(仮称)という同じジャンルの二つの漫画を比較し、
その優劣を論じるというページに行き着いた。
曰く、
「Aは条件Xを満たしていないけれども、
Bは条件Xを満たしている。
このことから、Bはより優れている漫画と言える」
実際はこれの数百倍は軽くある文量で、
その両者についての分析、Xとの関連性についての説明は精細を極め、
読んでいてなるほどと思わされるものが多かった。
だが。
AがXを満たしていないこと、BがXを満たしていることはよくわかったのだが、
『なんで条件Xを満たしている事が優れていることになるのか』
についての説明はそこには全くなかった。
考察の大前提になるべき部分が抜け落ちてしまっているのだ。
分析自体は妥当なものだったが、結論についてはどうにも妥当なものとは思えなかった。
漫画や、あるいは小説や映画などの他のエンターテイメントを語る上で難しいのは、
『何を基準としてそのものの出来不出来を論ずるか』という点だろう。
その漫画のある点が優れているからといってその漫画が面白く思えるとは限らない。
ある人がその点を高く評価していたとしても自分にとってはどうでもいいことだったりする。
技術的な点では『観賞する人間を不愉快にしない』ためのもの、
推理小説で言う『ノックスの十戒』程度のものなら
客観的な判断材料として用いられそうだが、
それは対象が『不出来かそうでないか』を論ずる際の基準であり、
『出来がいいかそうでないか』の判断に用いるのは不適当に思える。
だが、唯一つ、漫画の出来を論ずるうえで絶対的な基準と成り得るものがある。
それは、読者が漫画に対して抱いた『感情』である。
自分がそれを面白いと思ったこと、あるいは気に入らないと感じたこと、
それらが完全な勘違いに基づくものでもない限り、
他人にその感情を覆させることは困難である。
(簡単に覆されるようならば、それは元々大した感情ではあるまい)
そして例えその『感情』が少数派に属するものであったとしても、
自分が『そう思った』ということには何らかの意味があるはず。
漫画が読者を楽しませるものであるならば、
その『感情』には何かの意味があるはずなのだ。
したがって、漫画を個人レベルで論じる際には、
あくまでも『自分の感情』を判断基準として語るのが妥当ではないかと思う。
(続く)