にゃるにゃゆ流漫画批評論(後編)
(前回の続き)
ただし、いくら『個人の感情』がその人にとって正しいからといって、
何でもかんでも言っていいというものではない。
『自分の中の世界の常識を主張するのは結構だが、
他人の中の世界を否定してはならない』
自分の意見を主張するのは勝手だが、
人にそれを押し付けるな、ということである。
私は旧サンデー感想で好き勝手にボロクソ書いているけれど、
ここのところの基準は守って書いていたつもりである。
(ちなみにここでいう『他人』とは漫画家のことではなく、
自分と同列な他の読者のこと。
基本的に漫画家と読者は『金』で繋がっている関係なので、
その間に情を挟ませる事はナンセンスである。
少なくともそれは読者の義務ではない)
無論、主観的な事柄ではなく、
客観的に見て明らかな事ならばその限りではないが、
問題はどこまでが主観で、どこまでが客観か、ということ。
私などはその切り分けが面倒なので、
全部主観扱いで語っていたりするが……
私の見解では、客観的に行えるのはせいぜい漫画の『分析』までである。
ある項目について、それが『出来ているか出来ていないか』という判定。
デッサンが崩れてないかとか、話の流れが不自然じゃないかとか、
世界観がキチンと出来上がっているかどうかだとか、
考証が適切かどうかだとか、こういったことなら客観的に見ることもできるだろう。
だが、それをどう評価するか、というレベルの話になると、それはもう主観である。
デッサン崩れまくってればダメ漫画かというと、
それでも大ウケした漫画は山ほどある。
話の流れが行き当たりばったりでも面白い漫画はいくらでもある。
というか、昔のジャンプ漫画はそんなのばっかりだ。
何を以って面白いとするかは個人次第。
一般的には数の多い『主観』が
『客観』として扱われるきらいがあるけれども、
それならば真の客観的評価とは、『売り上げ』だけで論ずるべきであろう。
根拠のある具体的な数値的データを提示し、
それでもって漫画の優劣を語るのならば『評価』『批評』に成りうるだろうが、
そうでないならばいくら理屈をこねようとも所詮は『好き嫌い』の次元に留まるものだと思う。
ということで、私はWeb上で世の漫画の批評を行える人や、
持論にそぐわない他人の見解を完全否定できる人の自信と度胸にはほとほと感服する。
私のような無知無学な小心者には、
全てに主観フィルターを通して語るのが関の山だ。